難病でも明るくおバカに  ある筋ジス病棟患者の爆笑ブログ
  • 04«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »06
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

さるがさる
2012年04月04日 (水) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


おひさしぶりです。元気ですよ〜。元気があればなんでもできる。その間いろんなことがありすぎ。まずお尻が痛いのに熟睡するという大ポカをしてしまい傷物に・・・治るのに2月もかかった。そして今日一階病棟に移った。学生が増え老兵はサルいや去ることに。病棟違うと雰囲気も環境も違うので緊張する。今直面している大問題はかわいいナースがいるのかどうかだ。報告を待て。

少年期3
2012年01月21日 (土) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


中学生になって歩行困難で車椅子になった弟に脊柱の変形が見つかった。変形は筋ジストロフィーの症状のひとつで変形の原因は体幹を支持する筋肉の筋力低下によって、脊柱の変形が生じる。病院から父は呼び出され、弟を電動車いすに乗せコルセットで体幹を固定することにより変形の進行を止めたいと言われた。当然父は拒否する。病院側は脊柱の変形が進むと呼吸ができにくくなり危険だと説得を試みるが父は決して首を縦に振らなかった。父の主張はこうだ。弟はまだボールを投げたり車椅子を自力でこいで急な坂を登ることができる筋力があり体幹を維持できる。変形は悪い姿勢に原因があったのではないか。コルセットで電動車だとすぐに動けなくなる。体が真っ直ぐでも寝たきりになったら意味がないと。病院側は勝手にどうぞ、後で後悔しても知りませんよという感じだった。

弟と同じぐらいの病状でひとつ下の患者はコルセットで電動車という選択をした。奇しくもコルセットをつけるのとつけないのとの比較が出来ることとなった。最初の数ヶ月は変化なかったが徐々にコルセットの弊害がでてきた。コルセットで固定されるため同じ姿勢になりすぐにおしりが痛くなるのだ。そのために長時間の座位ができなくなりベッドで寝る時間が増えてしまった。当然、筋力の低下スピードは早くなる。一方弟は車いすの座席の上に片足を上げる姿勢を禁止して様子を見る。ボール投げや競走は以前と同じく続けれていた。弟は姿勢を正しくして脊柱の変形はそれ以上曲がることもなく20歳過ぎまでベッドからの移乗やトイレもすべて介助なしで自力で出来た。

コルセットの患者は残念ながら早くに寝たきりとなり20歳前後でみんな亡くなった。コルセットがすべて悪いとはいえないが多くは早く亡くなっている。結果的に父の判断は正しかった。もしあの時弟がコルセットにしていたら47歳までは生きられなかっただろう。


少年期2
2012年01月14日 (土) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


当時の東5病棟は大人も何人かいたがあとは15歳以下の子供たちがほとんどだった。全て介助の重度の子と自力と介助が半々の子、ほとんど自力で介助がいらない子がいた。僕はほぼひとりでできた。親許を離れているせいかみんな看護婦に甘えたがる。介助の必要な子は当然看護婦と関わる時間は多い。逆に僕みたいに介助のいらない子は関わりは少ない。それがすごく羨ましかった。そうすると甘えたい子はどうするかというと出来るのに出来ないフリをする。例えば起床時ベッドから起きたり車椅子に移動するのをできないと言ったり車椅子を自分でこげるのにこげないといって押してもらうのだ。その頃電動車椅子が普及し始めていた。スピードも出て病院中を自由に移動できるのでみんな乗りたがっていた。こぐのを怠ける子が増えた。病気の進行のスピードは人によって違うのだが甘えてやらない子の進行は恐ろしく早かった。筋ジスは毎日やらないと筋肉が衰えることがある。風邪を引いて一週間寝込んだだけで歩きにくくなったり立ち上がりにくくなる。年齢を重ねると回復もしにくくなる。継続は力なりとは筋ジスの格言でもある。あと進行は夏より冬によく進む。冬こそ筋ジス最大の敵だ。その原因は寒さ。寒いと手足が冷えるので動きが悪くなる。気分的にも動くのが億劫になり当然運動量も減る。あと風邪も引きやすく、進行する要因は揃っている。

甘えて自ら進行を早める子が多い中、僕たち兄弟は甘えたいとは思いつつも甘えることは出来なかった。外泊のたびに父の厳しいチェックがあるからだった。進行していると普段の優しい父とは別人のような怖い顔で「おまえたちが訓練を怠けるから出来なくなるんだ」怒鳴られるのだ。言い訳は一切許されなかった。進行する病気なのになんで怒られるのかとすごく悲しくて辛い思いもしたが心を鬼にして怒鳴る父はもっと辛かっただろうと思う。患者の中にも1時間かけて部屋から食堂に自力でこいでいく人もいて見習わないといけないなと思った。


少年期1
2012年01月07日 (土) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


12歳の春、4月3日に国立療養所松江病院(現松江医療センター)に入院した。病院はとにかく敷地が広大で入院する東5病棟は一番奥に位置し長い渡り廊下や急な坂があり迷路のようで一度では覚えられない場所にあった。病棟は建てられて2年目で新らしかった。病室に入ると車椅子に乗った太ったおじさんが両親にいろいろ説明してたので職員かと思っていたが実は患者だった。小児病棟といっても成人患者が4,5人いた。太ったおじさんは病棟最年長で貫禄もありいわゆる病棟のボスだった。

夕方になり両親が帰ると急に寂しくなった。イトコの家に泊まろうとしたがホームシックで夜中に帰った前科のある男が耐えられるはずもなかった。が弟の前では泣くこともできず夜ベッドの中で声を押し殺して泣いていた。このときの心境を「捨てられたかと思った。」と両親に言ったらしい。本人が覚えてないぐらいだから深く考えての言葉ではなかったが両親はかなりのショックを受けたと成人した後聞いた。子供の気まぐれな発言で本心ではないので両親には申し訳なかった。

学校は緑ヶ丘養護学校といい病院に隣接していたが筋ジスの生徒は分教室と呼ばれる病院内に作られた教室に通っていた。当時の松江病院は島根療養所と合併して新築の部分と戦前に建てられた木造の古い部分が混在していた。分教室は戦前に建てられた結核療養所の木造の手術棟を改築したと思われる。廊下が木に変わり車椅子で通るとギシギシいうような古さだった。

生徒が嫌がるからか誰も教えてくれなかったが丁度手術室の大きさぐらいのところが僕の教室だった。どうして元手術室と思ったかというと天井に金属製の丸い物体がついていた。おそらく手術台のライトがついていたと思う。改築といっても外に出れるドアをつけ床をベニヤ板に張り替えた程度だった。途中の部屋に人間の大きさぐらいの浴槽があったが当時結核は死の病だったので遺体を洗ったんじゃないかと想像した。よくそんな不気味な教室で勉強してたなと思うがそこは子供なので怖い怖いといいながら喜んで遊んでいた。



幼少期3
2011年12月31日 (土) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


いつの時代もいじめはある。まあいわゆる弱いものいじめだ。筋ジス特有のかかとを上げ胸を反らす歩き方をしていたので指を指されて笑われたり可哀相という目で見られたりすることはよくあった。普通は完全無視で去っていくのだが1回だけどうしても腹が立ってつかみかかりいった。が腕力差はどうしようもなく突き飛ばされ側溝に落とされ肘に大ケガを負った。その傷は今も残っている。それでも僕は泣かなかった。泣いたら負けを認められるような気がしたからだ。あるとき学校で下級生二人組にしつこく付きまとわれた。逃げても逃げてもニヤニヤと笑いながら歩く格好の真似をしながらついてくる。ずっと無視していたがそれでもバカにしながらついてくる。とにかくしつこかった。家に帰ったあと初めて悔しくて泣いた。どうしても我慢できなかった。家族の前で声をあげて泣いたのはこれが最初で最後だった。

僕が登校拒否にならなかったのはクラス内でいじめられなかったからだと思う。いじめをするのは違うクラスの子や下級生だった。いい同級生と担任に恵まれた。体育のとき足の遅い僕のいるチームは足の速い子が集められドリームチームのようだった。小学校を卒業したら松江の病院に入院することになった。階段をあがるのが結構きつくなり中学校は教室移動が大変だからだった。小5の弟も一緒に入院することになった。


幼少期2
2011年12月24日 (土) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


難病と診断され父は知りうる限りの進行性筋ジストロフィーの情報を集めたと思う。原因もわからず治療法もないという。知れば知るほど恐ろしい病気だということがわかった。筋線維の破壊・変性(筋壊死)と再生を繰り返しながら、次第に筋萎縮と筋力低下が進行していく。この再生という言葉に一縷の望みがあると感じた。子供の場合進行と成長が同時進行で起きる。そのために病気の進みが非常にゆっくりな時期がある。少しでも長生きさせてやるためには進行をなるべく遅らせることだ。一年でも長く歩かせ車椅子になってもできる限り自力で動かさせる。自力でできる機能を維持させることが大事なのだ。長生きできれば医療が進歩し治療法ができるかもしれない。

訓練と称し手足の曲げ伸ばしやマッサージ。腹筋などいろいろとやった。実家の廊下に学校の体育館にある肋木(ろくぼく)という梯子状の体操器具を設置した。だが父は設置しただけであれをやれこれをやれとは決して言わなかった。登ったり鉄棒のようにぶら下がったりして毎日遊んでいた。遊びだと嫌がらず自然に機能訓練になるという父の読みはあたった。

ある日新聞に長崎医大の研究で哺乳動物の膵臓より抽出された膵エキスが筋ジスへの効果が期待されるという記事が載った。すぐに父は手紙を出したが断られる。それでもあきらめず再度手紙を送る。効果がなくてもいいから、薬は長崎まで取りに行くと熱意が認められOKが出る、僕たち兄弟と父は夜行列車を乗り継いで長崎へと向かった。福岡で乗り換え長崎へ着いたのは翌日の昼。ちゃんぽんを食べて午後はグラバー邸など市内観光をしてホテルで一泊。次の日長崎医大に行く。診察を終え薬をもらえることになった。薬は二ヶ月に一回岡山の川崎医大に検査も兼ねて取りにいっていた。4年間薬を打ち続けたが薬自体が製造中止となった。効果なしと酷評されていたが膵エキス注射をしていた知り合いの筋ジス3人とも40歳以上だし一人は75歳で今も存命である。風邪を引きにくくなったし、僕はなんらかの効果はあったと信じている。

自分史 幼少期1
2011年12月17日 (土) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


生家の近くに袋川の桜の土手があり春には散った桜の花びらで道路がピンクの絨毯のようになる。病気の兆候が現れたのは5歳頃、よく転ぶ、歩き方が少し変なことに気づいた両親が病院に連れて行った。回された整形外科でも原因はわからずマッサージに通院するも効果はまったくない。

精密検査のために鳥取医大に入院して病名がわかった。血液検査で血清CK値著明に上昇。筋電図にて筋原性変化を認める。筋生検にて免疫染色を行いジストロフィン蛋白欠損。医者から告げられた病名は進行性筋ジストロフィー症デュシャンヌ型。進行性筋ジストロフィーの大部分を占め、重症な型である。おおよそ小学校5年生くらいの10歳代で車椅子生活となる人が多く、当時は20歳前後で心不全・呼吸不全のため死亡するといわれていた。

両親にとって初めて聞く病名で余命宣告もされるとは寝耳に水の出来事だったろう。さらに家族の血液検査でまだまったく症状のない弟も同じ病気だと診断された。兄弟揃って20歳まで生きられないと告げられたときの両親のショックは想像を絶する。7歳の僕は退院することがうれしくてはしゃいでいて病気の事も両親の苦悩もまったく知らなかった。

自分史
2011年12月11日 (日) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


一区切りついたところで自分史でも書いてみようかと思う。記憶が薄れていく前に文章にしておく。日記代わりでもある。筋ジストロフィーのことも自分の経験を踏まえ思うことを書き連ねてみる。筋ジス患者でブログ書いてる人って他の病気に比べて圧倒的に少ない。この理由も語っていくつもりだ。子供が筋ジスと診断された親たちはネットで筋ジス患者の生の声や情報が知りたくて検索してもほとんどみつからない。生の声をブログに載せていこうと思う。



ポジティブ
2011年12月04日 (日) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


いつのまにかもう12月。今年も残すところあとわずか。今年もいろいろあった。正直つらいことの多い年だった。体調的にはすごくよかったが精神面は結構ボロボロになった時期もあった。メンタルがこんなに弱いとはあきれもしたが。自分だけ元気で長生きして申し訳ない気もするけど。まあせっかくなら楽しく過ごしたほうが得とポジティブに考えれるようになった。筋ジス病棟もいろいろ変わってきている。思うところも多々ある。説教オヤジも必要だなあと思ってみたりして。


メールの反応
2011年11月28日 (月) | 編集 |
人気ブログランキングに参加しています。
応援のクリックをしていただけると10ポイントもらえ順位が
上がります。よろしければぽちっと応援の1クリックをお願いします。

↓これをぽちっと


とあるサイトで母親に「産んでくれてありがとう」とメールしてみようというのがあった。反応が人それぞれでおもしろかった。

一階からめっちゃでかい声で「はぁ!!!!!?」って聞こえてきたわ

電話かかってきて
「 何馬鹿なこと考えてるの!
仕事なんかなくてもいいから大丈夫だから、死ぬなんて馬鹿なことおもうんじゃない!」

ちょっとびっくりするよな。

「そんなんいいから早く昼食べちゃってよ」

「次はいつ帰ってくる? 」

「金ならやらん」

華麗にスルー系


「産まれてきてくれてありがとう 」

切り返しうまい。

「感謝してるなら帰りにマヨネーズ買ってきて 」

……(´・ω・`)

MVP決定。